愛されたいと願う人、愛される価値はないという人

最近、携帯をアップデートした。
私の携帯はAndroidなのだが、アップデートしたら電話帳が大変なことになった。同じ連絡先の人が12件とかになってしまったのだ。私は元々SNS以外で人と連絡を取らないし、放っておこうと思ったのだが、気になったので整理したら、連絡先を何人か消してしまった。その中にはSNSをしていない人もいたので、昔の携帯メールを遡ったのだけれど、3年前のメールが出てきて、戸惑った。
あー、若気の至り、と言うほど若くはないが、若かった頃の名残である。奔放に男性と遊んでばかりいた。後先のことなど、何も考えていなかった。
まさか3年後、拗らせ女子になり、三次元の男性への興味はなくなり、この過去が少し自分を苦しめるなんて、思わなかった。私は嘘がつけない。杞憂だけれど、これから先、男性を好きになって、長くお付き合いを続けるとしたら、私はこの過去を黙っているわけにはいかないと思う。軽蔑されるのだろうな、と思う。
愛されたい、とSNSを開けば多くの人が嘆いている。私は20代前半のときに、その気持ちを捨てた。自分にはそんな価値はないと思ったからだ。可愛くて普通じゃなければ、愛されないと思った。自分を必要としてくれる人なら誰でもいいと思っていた。きっと歴代の恋人は、私でなくてもいい人ばかりだったと思う。
愛されたいと嘆く人に訊いてみたい。決して否定的な意味ではなくて。自分に愛される価値があると思えるのはなぜ? って。永遠に愛されることなんてなくて、いつか見放されるかもしれないのに、どうしてそんな曖昧なことを願えるの? って。
不幸だと嘆く人は、経済的に余裕が出来、人にも社会にも必要とされ、友達と恋人と家族とうまくいっていて、コンプレックスから解放されていれば幸せなんだと思う。私はわからないんだ。だって幸せが怖いから。
人が寄ってくるのが怖い。誰かの記憶に残ることも怖い。経済的に余裕が出来ても、うまくお金を貯めて、使うことが出来なかった。友達と恋人と家族には依存したり、関係を壊した。私の幸せはそういうことではないんだ。
ささやかな日常をつつましく過ごし、たまには遊んで、小さな喜びを忘れない、それが私にとって幸せなことだ。例えば私は、おじいちゃんと孫が一緒に歩いているのを見るのが好きだ。それはとても微笑ましく、美しい。彼らの人生と私の人生は全然違うけど、とてもいとおしいものだと感じる。
本当は季節の移り変わりを幸せに感じたいものなのだが、いかんせん私、春と夏はそんなに好きではないの。特に春は苦手なの。春と夏は私の中で封印してやろうかと思っているの。でもフジファブリックの「桜の季節」は狂おしいほど好きなの。でも、フジファブリックを思い出すと、狂おしいほど好きだった人のことも思い出してしまうから、苦しいの。
その人はきっと子供と奥さんと一緒に桜を見ているだろう。あれから10年以上経ったのに、私は変われていない。
そういえば、桜の咲く季節は、大体1人で過ごすのだった。でもそれで、良いのだと思う。